2017年12月10日

娯楽読物4-38(終わり)

 それから数日ののち、グスタアフ・フォン・アッシェンバッハは、気分がすぐれなかったので、いつもよりおそい朝の時刻に、水浴ホテルを出かけた。一種の肉体的だけでないめまいの発作ほっさと、かれは戦わねばならなかった。

それははげしくこみあげてくる不安の念――逃げ道も見込みもないという感じをともなっていた。その感じが外界に関したものか、それともかれ自身の存在に関したものか、そこははっきりしなかった。かれはロビイで、もう運ぶばかりになっている大量の荷物をみとめて、一人の門衛に、旅立つのはだれだとたずねると、かれがひそかにかくごしていたポオランドの貴族の名を、返事として聞かされた。

やつれた顔つきを変えることなしに、頭をちょっとあげただけで――これは別に知る必要もないことを、事のついでに知っておくときのしぐさである――かれはその名を受けとった。そしてなおたずねた。「いつだね。」返事はこうだった。――「中食後でございます。」かれはうなずいた。そして海へ行った。

 そこは荒涼こうりょうとしていた。なぎさと最初の長い砂州とをへだてている、広い浅い水の上には、さざなみのおののきが、前からうしろへ走っていた。かつてはあれほど色とりどりににぎわっていた、今ではほとんど見すてられてしまって、その砂ももうはき清めてないこの行楽地のうえには、秋らしさとおとろえとがよどんでいるように見えた。

持主のないらしい写真機がひとつ、三脚にのったまま、波打ちぎわに置かれていて、その上にかぶせてある黒い布が、小寒い風にぱたぱたとひるがえっていた。

 タッジオは、かれに残された三四人の遊びなかまといっしょに、かれの家族の小屋の右手前で動いていた。そしてアッシェンバッハは、ひざに毛布をかけて、海と浜小屋の列とのほぼ中間に、例の寝いすによりながら、もう一度かれの様子を見守っていた。

監督を受けていないその遊びは――婦人たちは旅行の準備にかかっていたらしいからである――無秩序なものらしく、しだいに悪化していった。バンドのついた着物で、ポマードをつけた黒い髪の、「ヤアシュウ」とよばれる例のたくましい若者は、顔に砂をぶつけられたのに、かっとなって、目をくらまされて、タッジオを格闘に強しいた。

格闘はたちまち、弱いほうの美しい少年の転倒に終った。ところが、この別離のひとときに、いやしいほうの男の奉仕的な気持が、残忍なやばん性に変って、長いあいだの奴隷生活のうらみを晴らそうとでもするように、勝者はそうなってもなお、敗者を手から放さないで、相手の背の上にひざをついたなり、相手の顔を長いこと砂におしつけていたので、もともと格闘で息をきらしているタッジオは、今にもちっそくしそうな様子だった。

のしかかっている者をはねのけようとするかれの試みは、けいれん的だった。それは数瞬のあいだ全く中絶した。そしてもうひきつるような動きとなってくり返されるだけになった。はっと思ってアッシェンバッハが、救助にとび立とうとしたとき、暴行者はようやくそのぎせいを釈放した。

タッジオはまっさおな顔をしてなかば身を起こすと、片手をついたなり、数分間、身動きもせずに、乱れた髪とくもった目をして、坐っていた。やがてすっかり立ちあがると、ゆっくり遠ざかって行った。みんなはかれを呼んだ――はじめはいきおいよく、やがて心配そうに、哀願あいがんするように。

かれは耳をかさなかった。黒い髪の男は、自分の乱暴ざたをたちまち後悔する気になったらしく、タッジオに追いすがって、かれのきげんをなおそうとした。肩のひとゆすりが、その男をはねつけてしまった。タッジオは斜めに水ぎわへおりて行った。かれははだしで、赤いネクタイのついた、しまのある、例のリンネルの服を着ていた。

 波打ちぎわでかれは、うつむいたなり、片方の爪先でぬれた砂に何かかきながら、しばらくためらっていたが、やがて浅い潟のなかへ歩み入ると――そこは最も深いところでも、かれのひざまではぬらさなかった――ぶらぶら進みながら、そこを通り越して、砂州まで達した。

そこにかれは一瞬、顔を沖合へ向けたまま、たたずんでいた。それからこんどは、その浮き出た地面の長いせまい直線を、左のほうへゆっくり歩測しはじめた。幅のひろい水によって大陸からへだてられ、尊大な気分によって僚友たちからへだてられたまま、かれは、極度に分離した、連絡のない姿となって、髪をひらめかせながら、ずっと向うの海のなかを、風のなかを、きりのごとく無際限なものの前をそぞろ歩いていた。

しばしばかれは、ながめ渡すために足をとめた。そして突然、何か思い出したように、ある衝動を受けたように、片手を腰にあてたなり、上体を基本の姿勢から美しくまわしながらふりむけて、肩ごしに岸のほうへ目をやった。

こっちの見つめている男は、はじめその灰いろにくもった視線が、砂州からうしろへ送られてきて、かれの視線と出会ったとき、もとすわっていたとおりすわっていた。かれの頭はいすの背にもたれたまま、むこうを歩いている少年の動きを、ゆっくり追っていたのである。

このときその頭は、いわばその視線を迎えるように挙げられた。と思うと、がっくり胸の上へたれた。だからかれの目が下から見やっている一方、かれの顔には深いねむりのときの、ぐったりした、ふかく沈湎ちんめんしたような表情があらわれていた。

しかしかれは、ずっとむこうにいる青白いかわいらしい、たましいのみちびき手が、自分にほほえみかけ、自分をさしまねいているような気がした。なんとなくそのみちびき手が、手を腰からはなして、遠くのほうをゆびさしているような、望みにみちた巨大なもののなかへ、先に立ってかけてゆくような気がした。そして、今まで幾度もしたように、そのあとを追うべく立ちかけた。

 何分か過ぎてからようやく、人々は、いすの上で横むきにつっぷしてしまったこの男を救いにかけつけた。かれは自分の部屋へ運ばれた。そうしてまだその日のうちに、うやうやしく心を打たれたひとつの世界が、かれの訃報ふほうに接したのであった。(終わり)


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posted by 美健マスター at 06:00| ★娯楽読物 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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