2017年12月08日

娯楽読物4-36 そうしてやめることのできない、気がすむということのない人のように

 そうしてやめることのできない、気がすむということのない人のように、かれはあとからあとからいきおいづけられるせわしなさで、いろんな操作へ次々に移って行った。アッシェンバッハは、ゆったりとやすらいながら、ふせぐ力もなく、むしろこうされることにたのもしい興奮を感じつつ、自分の眉がかがみのなかで、いっそうくっきりとかつつりあいよく弓形をえがくのを、まなじりが長くなるのを、まぶたの地がうすくそめられたために、目のかがやきが高まるのを見た。

もっと下のほうの、はだが淡褐色で革かわのようだったあたりに、ほんのりぬられて、あわい臙脂えんじがめざめるのを、今の今まで血のけのなかったくちびるが、いちごいろにもりあがるのを、頬と口のふかいしわが、目の小じわが、クリイムと青春のけはいとに会って消えてゆくのを見た。

――胸をときめかせながら、かれはひとりの生き生きとした青年を見たのである。美容師はようやく満足の意を表すると同時に、こういう人間の流儀で、自分のかしずいた者に、卑屈なほど丁重に礼を言った。「ささいなおぎないをいたしただけです。」とかれは、アッシェンバッハの外観に最後の手を加えながら言った。

「さあ、これで心おきなく恋をなさることができますよ。」うっとりとしたアッシェンバッハは、夢のように幸福な、まごついた、びくびくした気持で、そこを出た。かれのネクタイは赤く、広いかげをつくるむぎわら帽には、多彩たさいなリボンがまきつけてあった。

 なまあたたかい暴風が吹きはじめていた。雨は時たま、わずかにふるだけだったが、空気はしめって、よどんで、腐敗物のにおいにみちていた。はたはたいう音、ぴちゃぴちゃいう音、そしてごうごういう音が、聴覚をおし包んだ。

そうして化粧したまま熱に浮かされている男は、たちの悪い風の精霊どもが――こののろわれた者の食物をかきまわしたり、突っつきちらしたり、汚物おぶつでけがしたりする、いじの悪い海鳥どもが、空中を横行しているように思った。それはむしあつさが食欲をさまたげるし、それに食物が伝染病菌で毒されているという観念が、おさえがたく起こってくるからであった。

 美しい少年の足跡を追って、アッシェンバッハはある午後、病んでいる都のごたごたした中心地へ没入して行った。この迷宮の裏町や河や橋や小さい広場が、あまりたがいに似通っているために、かれは見当がつかなくなったうえ、方位さえも不確かになって、ただひとえに、したいつつ追い求めているその姿を見失うまいとのみ念じていた。

そしてあさましいほどの用心を強しいられて、塀へいに身をおしつけたり、前を行く人たちの背にかくれて避難したりしながら、感情と不断の緊張が、かれの肉体、かれの精神に加えた疲労こんぱいを、かれは長いあいだ意識せずにいた。

タッジオは同伴者たちのうしろから歩いて行った。せまいところにくるといつも、女家庭教師と尼僧めいた姉たちを先に行かせて、ひとりきりでゆっくり足を運びながら、時々頭をめぐらしては、かれの求愛者があとからついてくるのを、肩ごしに、例の妙に灰いろにくもった目の一べつで、たしかめるのだった。タッジオはかれを見た。

しかもかれのことを明かさなかった。それがわかったのでうちょうてんになり、タッジオの目に前へ前へとおびきよせられ、あほうを引っぱるつなで、情熱の手によって引かれながら、この恋におぼれた男は、その不穏当な希望のあとをひそかにつけて行ったが――しかし結局、その希望のすがたをうばわれてしまった。ポオランド人たちは、短かい弓なりをしたひとつの橋を渡った。

その弓なりの頂点が、かれらを追跡者の目からかくしてしまったのである。そしてかれは自分もその上までのぼったのだが、かれらはもう見つからなかった。かれは三方へむかってかれらをさぐった。まっすぐ前と、細いよごれた岸壁に沿うて両側へ。しかしむなしかった。疲労と衰弱に強いられて、かれはついにさがすことをやめた。

 かれの頭はもえ、からだはじとじとするあせでおおわれ、うなじはふるえ、これ以上たえがたいほどのかわきにさいなまれて、かれは、なんでもいいから今すぐにのどをうるおすものはないか、とあたりを見まわした。小さな青物屋の店先で、いくらかの果物――いちごの熟しすぎたやわらかなのを買って、歩きながらそれをたべた。

ひっそりした、魔法にかけられたような気のする小さい広場が、かれの前にひらけた。そこは見おぼえがあった。かれが何週間か前に、むなしくなった逃亡の計画を立てたのは、ここだったのである。かれはこの場所のまんなかに、水槽すいそうの階段のうえに、くずれるように腰をおろして、石の丸味のところへ頭をもたせた。

あたりはしずかで、しきいしのあいだに草がはえていて、ごみが一面にちらばっていた。くずれかけた、高さの不ぞろいなぐるりの家々のうち、宮殿めいて見えるのがひとつあって、奥に空虚の住んでいる尖頂窓せんちょうそうと、獅子の飾りのある小さな露台がついていた。もう一けんの家の一階に薬屋があった。暑い突風がときどき石炭酸のにおいを運んできた。


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posted by 美健マスター at 06:00| ★娯楽読物 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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