2017年11月29日

娯楽読物4-27 こうしてかれは、やわらかい黒いクッションにもたれたまま

 こうしてかれは、やわらかい黒いクッションにもたれたまま、もう一つの、船首の突き出た黒い小舟のあとを、すべりながら、ゆれながら、追って行った。その舟ののこす跡に、情熱がかれをしばりつけているのである。時々小舟はかれの目から消えた。するとかれは憂悶と不安をおぼえる。

しかしかれの案内者は、まるでこういう使命には馴れきってでもいるように、かならずたくみな操縦によって――急いでななめに走ったり、近道を取ったりして、望みのものをふたたびかれの眼前に持ってくることを心得ていた。

空気はしずかで、においをふくみ、太陽は、空をスレエトいろに染めるもやをつらぬいて、はげしくもえ立った。水はぴたぴたと音を立てながら、木と石にあたった。

なかば警告を、なかばあいさつをあらわす船頭の呼び声に、遠くのほうから、迷路の静けさのなかから、奇妙な合意にしたがって、あいさつがあった、高いところにある庭園のなかから、白や深紅の花のふさが、はたんきょうのかおりをさせながら、くちかけた塀越しにたれさがっている。

アラビアふうの窓べりが、もうろうとしたなかにくっきりと浮かんでいる。ある寺院の大理石の踏段が、水のなかまで降りている。こじきがひとり、その上にうずくまって、自分の窮状を断言しながら、帽子を突き出し、まるでめくらのように、白眼を見せている。

ひとりの古物商が、自分の汚ない店の前で、卑屈な身ぶりをしながら、通りかかるアッシェンバッハに――かれをだまそうと望みつつ――滞留をすすめる。これがヴェニスである。おせじのうまい、あやしげな美女である。

――なかば童話で、なかば旅客をとらえるわなにひとしいこの都なのである。ここのくさったような空気のなかで、芸術はかつてほしいままに繁茂はんもし、音楽家たちはこの都から、かるくゆすってはこびるように寝入らせるひびきを吹きこまれたのだ。われわれの冒険者は、なんとなく自分の目がそういう繁栄を吸い、耳がそういった韻律いんりつに言い寄られているような気持だった。

それにかれは、この都が病んでいること、そしてそれを利欲のために秘していることをも思い起こした。そして一段とほしいままに、前をゆれ進むゴンドラのほうをうかがった。

 こんなわけで、このまよった男は、自分をもえ立たせる対象を、間断なく追跡すること、その対象が見えぬときには、それを夢にみること、そして恋する者たちの流儀どおり、その対象の単なる影法師にやさしい言葉をかけること――それ以外にはもうなんにも知らず、なんにも願わなかった。

孤独と異境と、晩期の深い陶酔の幸福とに勇気づけられ、説得されて、かれはどんな風変りなことをも、はばかるところもなく、顔を赤らめることもなしに、みずからに許した。そこでこんなことも起ったわけである。――つまり、かれは夜ふけにヴェニスからもどってきて、ホテルの二階で、あの美しい少年の部屋の戸口に足をとめると、全くよいごこちになって、ひたいを戸のちょうつがいのところにおしあてたなり、長いことそこからはなれることができなかったのだ――こんなきちがいじみたかっこうのまま見つかってつかまえられる、という危険をおかしながら。

 とはいえ、休止と、ある程度の反省との瞬間がないわけではなかった。なんという道にいることか、とかれはそういう折、あきれて考える。――なんという道に。自然の功績によって、自分の血統に対するある貴族的な関心を抱かせられる人は、だれでもそうだが、かれはいつも、自分の生活の業績や成功にさいして、祖先のことを思い、かれらの賛同、かれらの満足、かれらの否応なしの尊敬を、頭の中で確保するというくせがあった。

今ここでもかれは、かくも許しがたい閲歴のなかにまきこまれながら、感情のかくも異国的なほうらつにひたりながら、かれらのことを思った。かれらの人物の毅然きぜんたるきびしさと端正な男らしさとを思った。そしてゆううつな微笑をうかべた。

かれらならなんと言うであろう。しかしいうまでもなく、かれらはかれの生活全体に対して、はたして言うことがあっただろうか――かれらの生活とは種類を異にするほどかけはなれているこの生活、芸術にみいられたこの生活――これについてはかれ自身が昔、祖先と同じ市民的な気持で、いかにも冷笑的な、青年としての認識を発表したことがある

――そして要するにかれらの生活にじつによく似ていたこの生活に対して。かれもまた勤務したのである。かれもまた、かれらの多くと同様、やはり兵士であり軍人であったのだ。――なぜなら、芸術とは一つの戦争、骨身をけずるような闘争であって、こんにち、長く続けてこの役をはたす人はないのである。

それは克己こっきと、にもかかわらずとの生活であり、厳格な、確乎かっことした、禁欲的な生活であって、かれはこれをせんさいな、時代的な英雄精神の象徴として形成してきたのだが――おそらくかれはこの生活を男性的と名づけ、勇敢と名づけてさしつかえないであろう。

そしてほとんどかれは自分をとりこにしているエロスの神が、こういう生活にどうやら特に合っているような、心をよせているような気がした。この神は最も勇敢な民族にさえも、大いに尊信されていなかったか。いや、かれは勇気によってかれらの都市で栄えた、といわれてはいないのか。

昔の幾多の勇士たちは、唯々いいとしてかれのかせに服した。なぜならこの神のくだすはずかしめは、一つとして妥当しないからだ。そしてほかの目的のためになされたとしたら、臆病の標識として非難されたでもあろうような行為――平伏とか、誓言とか、切願とか、奴隷じみたふるまいとか、そういったものも、恋する者にとっては、はじとはならず、むしろかれはそのためになお賞讃を博するのである。

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posted by 美健マスター at 06:00| ★娯楽読物 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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