2017年11月27日

娯楽読物4-25 それは正午ごろのことだった

 それは正午ごろのことだった。午後、アッシェンバッハは、無風と息苦しい烈日のなかを、ヴェニスへ渡った。なぜなら、あのポオランド人のきょうだいが例の女家庭教師といっしょに、さんばしへゆく道を取ったのを見たかれは、そのあとを追おうという偏執へんしゅうにかり立てられたのである。

かれはその偶像を、サン・マルコには見いださなかった。しかしこの広場の日かげのがわにある、小さな鉄の丸テエブルに席を占めて、茶を飲んでいるとき、かれは突然空気のなかに、一種異様な芳香をかぎつけた。するとそれが、すでに数日前から、意識の中へは突き入らぬながら、感覚にはふれていたかのような気がした。

――それは悲惨と創傷とあやしげな清潔とを思い起こさせる、甘ったるい、薬品めいたにおいだった。かれはそれを吟味して、考え考えその正体をつかんで、軽い食事をすませると、寺院の反対側から、その広場を去った。狭いところへくると、においは濃くなった。

街のかどかどに、印刷された掲示がはってある。それは住民たちに対して、こういう時候には胃の系統のある病気がよくはやるから、かきや貝類を食べぬよう、そして運河の水も飲まぬようにと、市の官憲が警告しているものなのであった。

この布告のごまかしめいた性質はあきらかだった。人々は群をなして、無言で橋や広場の上によりあつまっていた。そして旅の男は、さぐりながら、考えこみながら、その群にまじって立っていた。

 さんごの首飾りと模造の紫水晶の装身具とのあいだにはさまって、自分の売店の戸口によりかかっていたひとりの店主に、かれはこの不吉なにおいの説明を求めた。男はだるそうな目でかれをじろじろ見ていたが、あわてて気を引き立てた。

「一種の予防手段ですよ、だんな。」とかれは手まねをしながら答えた。「警察のやることですから、文句を言うわけには行きません。このとおり天気はおもくるしいし、熱風シロッコというやつはからだによくありませんからな。

つまり、おわかりでしょう――ちょっとまあ大げさな用心というところで……」アッシェンバッハはかれに礼を言って、そこを去った。リドまでかれをつれもどした汽船の上でも、かれはそうなると、さっきんざいのにおいを感じるのであった。

 ホテルに帰ってくると、すぐロビイの新聞台のところへ行って、かれはいろんな新聞をしらべてみた。外国語のにはなんにも出ていなかった。故郷のはさまざまな風評をのせ、不安定な数字を引用し、官辺からの否認をのべ、そしてその否認の真実性を疑っていた。

これでドイツとオオストリアの連中の引き揚げたことは、説明がついた。ほかの国籍をもつ人たちは、たしかになんにも知らず、なんにも予覚せず、まだ不安を感じていないのである。「黙っているべきだ。」とアッシェンバッハは、新聞をテエブルの上へ投げ返しながら、昂奮した気持で考えた。

「これはひみつにしておくべきだ。」しかし同時にかれの心は、外界のいまおちいろうとしている危険についての満足感でみたされていた。なぜなら、犯罪にとってと同じく、情熱にとっては、日常生活の確保された秩序と安寧あんねいは意にかなわぬものであって、市民的な組織が少しでもゆるんだり、世の中が少しでも混乱したり災難にあったりするのは、喜ばしいことにちがいないのである。

情熱はそんな場合、自分の利益を見つけることを、漠然ばくぜんと望み得るからである。そういうわけでアッシェンバッハは、ヴェニスの不潔な裏町での、官憲に伏せられている事件について、ぼんやりした満足をおぼえた。――この都市のこのやっかいなひみつ――これはかれ自身の最も固有なひみつととけ合っているし、これを守ることは、かれにとってもまた大いに肝要だったのである。

何しろこの恋におぼれた男は、タッジオが旅立つかもしれぬということだけしか心配していなかった。そしてもしそうなったら、自分はもう生きてゆくすべを知らぬだろう、とさとって、かなり愕然がくぜんとしてしまったのである。

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posted by 美健マスター at 06:00| ★娯楽読物 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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