2017年11月25日

娯楽読物4-23 たがいにただ見知り越しというだけで

 たがいにただ見知り越しというだけで――毎日、いや、毎時間、たがいに出会ってながめ合いながら、そのくせあいさつもせず言葉もかけずに、冷淡なよそよそしさの外観を維持するべく、儀礼の強制か自己の気まぐれかによって、余儀なくされている人間――そういう人間同士の関係ほど、奇妙なやっかいなものはない。

かれらのあいだには、動揺といらだたしい好奇心があり、みたされぬ、不自然に抑圧された認識欲と交換欲とのヒステリイがあり、そして特にまた、一種の緊張した尊敬がある。なぜなら人間は、人間を批判し得ないうちは、かれを愛しかつうやまうものであるし、あこがれというものは、不足した認識の所産だからである。

 アッシェンバッハとおさないタッジオとのあいだには、なんらかの関係となじみが、どうしても作り出されずにはいなかった。そしてしみとおるような喜びとともに、年上の男は、関心と注意がまるでむくいられぬままではないのを、たしかに認めることができた。

たとえば、この美しい少年は何に動かされて、朝、なぎさに現われるとき、もう小屋のうしろの板橋を渡らずに、いつもただ前方の道をとおって――砂地を横ぎって、アッシェンバッハの居場所のそばをすぎて、しかも時には不必要にすぐ近くをすぎて、かれのテエブル、かれのいすとほとんどすれすれになるくらいにして、自分の一家のいる小屋まで、ぶらぶら行くようになったのだろう。

ある優越した感情の牽引けんいんと眩惑げんわくが、その感情のせんさいな無思慮な対象へむかって、それほど働きかけるのだろうか。アッシェンバッハは毎日、タッジオの登場を待ちかまえていた。そしてその登場が実現するとき、かれは時折、仕事に気をとられているようなふりをする。

そして美しい少年を、表面上は気にもとめずに、やりすごしてしまう。時にはしかし目をあげることもある。するとふたりの視線がぶつかる。そういうとき、かれらはふたりともきわめて厳粛である。年上の男の、教養のあるいかめしい顔いろには、何一つ内心の感動をもらしているものはない。

しかしタッジオの目のなかには、一つの探求が、一つの考えぶかい質問があった。かれの歩みはためらいはじめる。かれは目をふせる。ふたたびかわいらしく目をあげる。そして通りすぎたあとでは、いつも、かれの姿勢のなかのあるものが、自分はただ教育にさまたげられてふり返らないだけだ、と言い表わしているように見えるのである。

 ところが一度、ある夕方、その経過が変った。ポオランド人のきょうだいたちは、女家庭教師ともども、大食堂での主要な食事のときに出てこなかった――アッシェンバッハは、不安な気持でそれに気づいた。かれは食事がすむと、かれらのゆくえをひどく気にしながら、夜の社交服とむぎわら帽子のままで、ホテルの前のテラスの下をさまよっていた。

すると突然、あの尼僧めいた姉妹と女家庭教師、そしてその四歩あとからタッジオが、アアク灯のかげに浮かび出てくるのをかれは見た。たしかにかれらは、何かの理由から市中で食事をすませたのち、棧橋さんばしのところから歩いてきたものだった。

水の上はきっとつめたかったのであろう。タッジオは金ボタンのついた濃紺の短かい水夫式外套がいとうを着て、頭にはそれとそろいのふちなし帽をかぶっていた。太陽もしおかぜもかれをやかなかった。かれのはだは最初のころのとおり、大理石のような黄味を失わなかった。

とはいえきょうは、冷気のせいか、それとも青く見せる月に似た灯火の光のせいか、常より血色が悪いように見えた。つりあいのとれた眉はいっそうくっきりときわだち、目はふかい黒味をたたえている。

かれは口でのべ得る以上に美しかった。そしてアッシェンバッハは、すでに度々感じたように、言葉というものは、感覚的な美をほめたたえることができるだけで、それを再現する力はない、と苦しい気持で感じたのであった。



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posted by 美健マスター at 06:00| ★娯楽読物 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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