2017年11月24日

娯楽読物4-22-1 すでにかれは、自分自身に許したひまな時間の経過を

 すでにかれは、自分自身に許したひまな時間の経過を、監視しなくなっていた。帰郷の考えは、かれの心にふれさえもしなかった。金は充分とりよせてあった。かれの気づかいはただひとえに、あのポオランド人の家族が旅立つかもしれぬ、ということにかかっていた。

それでもかれは内々で――ホテルの理髪師にそれとなくたずねて見て、あの一行はかれ自身の到着したほんの少し前に、ここへ投宿したのだ、と聞き知っていたのである。太陽がかれの顔と手をやき、刺激のつよいしおかぜが、かれを感情へと強めた。

そしてこれまでは、眠りや栄養やまたは自然のさずけてくれた、あらゆる新鮮な力を、すぐに一つの作品に消費してしまうのが常であったのに、こんどは、太陽と余暇と海風の供給する、毎日の元気を、おうような不経済なやりかたで、ことごとく陶酔と感覚に使いつくしてしまうのだった。

 かれの眠りは浅かった。こころよく単調な日々が、幸福な動揺にみちた短かい夜で仕切られていた。なるほどかれはいちはやく引きこもった。タッジオがぶたいから消えてしまう九時に、かれにとっては一日は終ったような気がするからである。

しかし夜がやっと明けかかるころに、やわらかく心をつらぬくようなおどろきが、かれをよびさます。かれの心臓はかれの冒険を思い起こす。かれはもう寝床の中にいる気がしなくなる。かれは起きなおる。そしてあかつきの寒気をふせぐために軽くからだを包んだまま、あけ放した窓ぎわに腰をおろして、日の出を待つのである。

このすばらしい事象は、眠りできよめられたかれのたましいを、敬虔けいけんな気持でいっぱいにする。まだ天と地と海は、不気味にガラスめいた薄明の蒼白そうはくさのなかに横たわっている。消えかけの星が一つ、ぼうばくたるなかにまだ浮かんでいる。

しかし微風が吹いてきた。それはあけぼのの女神エエオスが良人のそばから身を起こしたということ、そしてはるかかなたの空と海との幾部分が、今はじめてほのかに赤らみはじめて、天地万物の感覚化を表わしているということの、近づきがたいすみかからきた、じんそくな知らせなのである。

あの女神は近づく。クライトスとケファロスを強奪し、オリンポスのあらゆる神々のねたみに反抗しつつ、美しいオリオンの寵愛ちょうあいをうけている、あの少年ゆうかいを事とする女神である。かなたに、世界の果に、ばらの花がまかれはじめた。

言いようもなく優美な光輝と開花である。あどけない雲が、きよめられ、光をにじませながら、奉仕する愛の童神たちのように、ばらいろの、うす青いもやのなかに浮動している。深紅しんくが海の上へおちる。海はわき立ちながら、それを前へ前へと流し進めてゆくように見える。

黄金のやりが下から空の高みまでさっと走る。かがやきは火となる。音も立てず、神々しい絶大な力で、白熱と烈火と炎々えんえんたるほのおとが、もくもくと立ちのぼってくる。そしてひずめをかいこみながら、女神の兄弟の御する神聖な駿馬しゅんめが、高く地をこえて昇ってくる。

この神の壮麗な光りで照らされたまま、ひとりめざめた男はすわっていた。かれは目をとじた。そして栄光をまぶたにせっぷんさせた。

昔のさまざまな感情――かれの生活への厳格な奉仕のうちに死滅して、今いかにも奇妙に形を変えてもどってきた、かれの心の早期の貴重ななやみ――それをかれは、うろたえた、いぶかしげな微笑を浮かべながら認知したのである。かれは沈思した。

夢想した。かれのくちびるは徐々に一つの名前を形成して行った。そして相変らず微笑しながら、顔をあおむけて、両手をひざにおいたなり、かれはその安楽いすでもう一度寝入ってしまった。

 しかしかくも火のようなはれがましさではじまったこの日は、総じてふしぎにたかめられ、神秘的に変形されていた。突然、けだかいささやきにも似て、いかにもやわらかくまた意味ふかく、こめかみや耳のあたりにまつわるこのいぶきは、どこからきて、どこに源をもっているのであろう。

白い羽のような小さい雲が、神々にかわれている畜群のように、空いちめんにむらがり浮かんでいた。一段と強い風が立った。そして海神ポザイドンの馬どもが、はねあがりながら走ってきた。それからこの青い捲毛の神に属している雄牛どももやってきた――ほえたけってはやがけしながら、つのをさげたままで。

さらに遠いなぎさの岩石のあいだでは、しかし波がはねおどるやぎになって、とびまわっていた。あわただしい生活にみちた、神々しくゆがめられた世界が、このうっとりとした男をとりかこみ、そしてかれの心はやさしい寓話を夢みていたのである。

ヴェニスのむこうに日が落ちるとき、かれは幾度か、タッジオの様子を見守るために、遊園のベンチに腰かけていた。タッジオは白い服にはでな色のバンドをしめて、砂利のしいてある平坦な広場で、まりあそびに興じている。そしてかれはまさにヒアキントスを見るような気がした。

そしてヒアキントスこそは、ふたりの神々に愛されたがゆえに、死なねばならなかったのだ。全くアッシェンバッハは、ツェフィイルがそのこいがたきに対していだいたねたみを感じた。たえず美しいヒアキントスと遊ぶために、神託をも弓をもキタラをも忘れてしまったこいがたきである。

アッシェンバッハは、投げられた円盤が、残忍なねたみにあやつられて、そのかわいらしい頭にあたるのを見た。かれは――青ざめながらかれもまた――くずおれるその肉体を受けとめた。そうしてその甘美な血から咲き出た花は、かれの限りない悲嘆の銘めいを帯びていた……




posted by 美健マスター at 06:00| ★娯楽読物 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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