2017年11月23日

娯楽読物4-22 作家の幸福は、感情になりきり得る思想であり

 作家の幸福は、感情になりきり得る思想であり、思想になりきり得る感情である。そういう脈打つような思想、そういう精密な感情が、当時この孤独な男に所属し服従していた。すなわち、自然は精神がうやうやしく美のまえに頭をさげるとき、うっとりとしておののく、という思想、感情なのである。

かれは突然書きたくなった。なるほど、エロスの神は遊惰ゆうだをこのみ、そして遊惰のためにのみ造られている、と言われる。しかし危機のこの点では、このおそわれた男の興奮は、生産にむかっていた。動機なぞはほとんどどうでもよかったのである。

文化と趣味の或る大きな焦眉しょうびの問題について、所信を明かにしながら語ってくれぬかという問合せが、勧誘が、精神界の人たちに発せられて、この旅先にある男のもとへ到着していた。この題目はかれの熟知のものだった。かれには体験となっていたのである。

それを自分の言葉の光りで輝かせたいという熱望が、突然不可抗になった。しかもかれの欲望は、タッジオのいる前で仕事をすること、書くときにこの少年のからだつきを手本にすること、自分の文体を、自分に神々しく思われるこの肉体の線に従わせること、そしてむかしわしがあのトロヤの牧童を大空へのせて行ったごとく、少年の美しさを精神の境へのせて行くことをめざしていたのである。

アッシェンバッハは、日よけの下の粗製のテエブルについて、偶像の面前で、その声のかなでる音楽を耳にしながら、タッジオの美にもとづいて小論文を書いたのだが、この危険をふくんだ快美ないくとき以上に、かれは言葉の喜びを甘く感じたことはなかったし、エロスは言葉のなかにあると自覚したことはなかった。

――それは洗練された一ペエジ半の散文で、その清純と高貴と振動するほど緊張した感情とは、近いうちに、多くの人々の嘆賞をひきおこすはずになっていたのである。世間が美しい作品を知っているだけで、その根源を、発生条件を知らぬのは、たしかにいいことだ。

なぜなら、芸術家にわいてくる霊感の源泉を知ったら、世間はしばしばまごつかされ、おびやかされるであろうし、従って優秀なもののもつ効果が消されてしまうであろう。奇妙ないくとき! 奇妙に精根しょうこんを疲らせる辛労しんろう! 

精神と肉体のふしぎに生産的なまじわり! 原稿をきちんとしまって、なぎさから立ちかけたとき、アッシェンバッハは疲れきったような、いや、ぼうっとしてしまったような気持だった。そしてなんとなく良心が、ある放埓ほうらつののちのように、苦情を言っているような気がした。

 それは次の朝のことだったが、まさにホテルを出かけようとしていたかれは、タッジオがすでに海へ行こうとしながら――しかもひとりきりで――ちょうどなぎさのさくに近づいてゆくのを、外の階段から見かけた。この機会を利用しよう、そして無意識のうちにおびただしい高揚と感動を自分に与えてくれた者と、かろやかな、ほがらかなまじわりを結ぼう、かれに話しかけよう、かれの返事とかれのまなざしを楽しもうという願いが、単純な考えが、当然起こって来て、強く押しせまった。

美しい少年はぶらぶら歩いている。追いつくのにわけはない。そこでアッシェンバッハは足を早めた。かれは小屋のうしろの板橋の上で、少年に追いすがった。少年の頭に、肩に、手をのせようとした。そして何かある言葉が、やさしいフランス語の文句がくちびるに浮かんでいた。

そのときかれは自分の心臓が、早く歩いたせいもあるのだろうが、ハンマアのように鼓動するのを感じた。こんなに息が切れていては、押し出したような、ふるえ声でしか話せなかろう、と感じた。かれはためらった。気をしずめようと試みた。

もうあまりにも長くこの美しい少年のあとをつけていはしないか、と急に心配になり、かれがさとりはしないが、いぶかしさにふり返りはしないか、と気づかい、もう一度身がまえ、力がぬけ、あきらめ、そうしてうつむいたまま通り越してしまった。

 もう間に合わない、とそのせつなにかれは思った。――もう間に合わない! しかし間に合わないのだろうか。かれが取ることを怠ったこの処置、これは十中八九、いい軽快な楽しい結果を、有効な覚醒かくせいを持ちきたらしたであろうに。

しかし、この初老の男はその覚醒を欲しなかった、陶酔はかれにとってあまりにもとうといものだった、というのがおそらく事実であろう。芸術家気質の本体と特徴とのなぞを、解く者があろうか。その気質の基もとを成している、規律と放漫との深い本能的融合を、会得えとくする者があろうか。

なぜといって、有効な覚醒を欲し得ないというのは、放漫なのである。アッシェンバッハは、もはや自己批判をする気持がなくなっている。かれの年齢のもつ趣味と精神状態、自尊心、円熟、そして晩期の単純性というものが、かれに、動機を分析して、自分が自分の意図を良心にもとづいて遂行したか、それともだらしなさと弱さから遂行したか、それを決定する気を起させないのである。

かれはまごついた。だれかある人が、たとえたかが浜の番人にもせよ、自分の走ったのを、自分の失敗したのを見ていたかもしれぬ、と怖れ、そのはじさらしを大いに怖れた。が、それはそれとして、かれは自分のこっけいで神聖な恐怖について、心中ひそかに冗談を言った。

「度を失っているな。」とかれは考えたのである。「けんかの途中で、おびえてつばさをたれてしまうおんどりのように、度を失っているな。愛すべき者を見るとき、これほどわれわれの勇気をくじき、われわれの毅然きぜんたる心を、これほど完全に押しつぶしてしまうのは、たしかにあの神なのだ……」かれはたわむれた。空想にふけった。そしてひとつの感情を怖れるには、あまりにも自負心がありすぎた。





posted by 美健マスター at 06:00| ★娯楽読物 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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