2017年11月15日

娯楽読物4-14 小さな旅行用の紙ばさみをひざにのせたまま

 小さな旅行用の紙ばさみをひざにのせたまま、かれは万年筆で、あれこれの通信をかたづけにかかった。しかし十五分もたつとすでに、かれは、自分の知る限りでの最も味わいがいのあるこの境遇を、こんなふうに心で見すてて、つまらない仕事で逸いっしてしまうのは、もったいない気がした。

筆と紙をわきへ投げすてると、かれはまた海へもどった。そうしてまもなく、砂の家を作っている子供たちの声につられて、頭をゆったりといすの背にもたせたまま右へむけて、あのすぐれたアッジオの行動をさがし求めようとした。

 最初の一べつがかれを見つけた。かれの胸の赤いリボンは、見そこなうべくもなかったのだ。少年はほかの連中といっしょに、一枚の古い板で、砂の城のしめったみぞに橋をかけることにとりかかりながら、さけんだり、首であいずをしたりして、工事のさしずを与えていた。

そこには、かれといっしょに十人ばかりの仲間がいた。かれと同じ年かっこうの、そして幾人かはもっと年下の、少年少女たちで、かれらはいろんな国語――ポオランド語やフランス語や、それからまたバルカン地方のなまりで、入りみだれてしゃべっていた。

しかし最もひんぱんにひびいたのは、かれの名であった。あきらかにかれは求められしたわれ嘆美されているのだ。とりわけひとり、かれと同じくポオランド人で、黒い髪にポマアドをつけ、バンドのついたリンネルの服を着た、「ヤアシュウ」とやら呼ばれている、がんじょうな若者は、かれの最もちかしい家来であり朋友ほうゆうであるらしかった。

ふたりは、砂の城の工事がひとまず終ったとき、からみ合うようにして、なぎさづたいに歩いて行った。そして「ヤアシュウ」と呼ばれる男は、その美しい少年に接吻した。

 アッシェンバッハは、その男を指でおどかしたい気持にさそわれた。「しかしおまえにすすめるが、クリトブロスよ、」とかれは微笑しながら思った。「一年間旅に出るがいい。おまえが全快するには、すくなくともそのくらいはかかるからね。」

それからかれは朝食に、行商人から買った大きな熟し切ったいちごをたべた。太陽は空のもやの層を突き破ることができないのに、暑さはひどくなっていた。精神が怠惰にとらえられている一方、五官は海の静寂の巨大なうっとりさせるような楽しみを味わっていた。

「アッジオ」とかなんとかいうのが、どういう名だろうか、それを推量し探究するのは、この荘重な男にとって、適切な、時間を完全に充実させる課題であり仕事であると思われた。そしていくらかのポオランド語の記憶にたすけられながら、かれは、それが「タッジオ」という意味にちがいない、つまり「タデウス」の略称で、よびかけのときに「タッジウ」と聞こえるのだ、と確認した。

 タッジオは水浴していた。かれを見失っていたアッシェンバッハは、かれの頭と、ぬき手を切っている腕とを、ずっと遠くの海の中に見つけた。海はずっと沖のほうまで浅いらしいのである。しかしみんなは早くもかれのことを気づかっている様子だった。

早くも女たちの声が、小屋からかれによびかけた。またしてもあの名前を絶叫したのである。それはほとんど一つの合言葉のようになぎさを支配した。そして例のやわらかな子音と、終りの長く引いたUの音があるので、甘いと同時に野生的なおもむきを持っているのだった――「タッジウ。タッジウ。」

かれはもどってきた。逆らう水を脚あしであわだてながら、頭をぐっとうしろへねかせるようにして、かれはうしおのなかを走っている。そして少年らしいやさしさと鋭さをもつ、このいきいきした姿態が、捲毛から水をしたたらせながら、空と海との深みから出てきた、なよやかな神のように美しく、水から浮かびあがり、水をのがれてゆくありさま――このながめはいろいろの神話めいた観念を呼び起こした。

このながめは、太初の時代について、形態の根源と神々の誕生について語る、詩人の報知に似ていた。アッシェンバッハは、目をとじたまま、胸中にひびきはじめたこの歌ごえに耳をすました。そしてふたたび、ここは居心地がいい、そして自分は滞留しようと考えた。

 そのあと、タッジオは水浴の疲れをやすめながら、砂にねていた。右肩の下にしいた、白いシイツにくるまって、むきだしの腕に頭をのせていた。そしてアッシェンバッハは、かれをながめずに、本の幾ペエジかを読んでいる時でさえも、ほとんど一度だって、少年がそこにねていること、そしてこの嘆賞すべきものを見るには、ただ頭をちょっと右へ動かすだけでいいのだ、ということを忘れてはいなかった。

かれはまるで、この休息者を守るためにすわっているような――自身の仕事にたずさわりながら、それでもやはり、そこの右手に、自分から遠くないところにいる、高貴な人間像をたえず見張りながら、ここにすわっているような気がしたくらいであった。そうして、ある父めいた好意――みずからをぎせいにしつつ、心の中で美しいものを生み出す人が、美の所有者に対して感じる、感動的な偏愛で、かれの心はみたされ動かされていた。





posted by 美健マスター at 06:00| ★娯楽読物 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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