2017年11月05日

娯楽読物4-4 こういうわけで、かれはその才能から

 こういうわけで、かれはその才能から負わされたいろいろな使命を、弱々しい肩にになって、遠い道を行かねばならなかったので、大に規律を必要とした。――ところで規律はむろん、しあわせと、父かたから伝わった、かれのうまれながらの相続分であった。

四十、五十になっても、またほかの人たちが浪費したり、夢想したり、大きな計画の遂行を平気でのばしたりするような年齢の時にもすでに、かれは朝早く冷水を胸と背に浴びることで、その日課をはじめた。それから銀の燭台に立てた二本のろうそくを、原稿の頭かみのところにすえたまま、眠りのあいだにたくわえた力を、真底から良心的な朝の二時間または三時間にわたって、芸術へ供物くもつとしてささげたのである。

マアヤの世界を、またはフリイドリヒの英雄生活の展開しているあのぼう大な叙事詩を、事情にうとい人たちが、圧縮された力と長い呼吸との産物だと思うとき、それはゆるすべきだった。いや、それこそは本来、この作家の倫理性の勝利を意味するものだった。

じつはそれらの作品は、むしろ毎日のこまかい仕事のうちに、何百という一つ一つの霊感をもとにして、偉大な形にまで積みかさねられたもので、それらがかくもはっきりと、しかもあらゆる点ですぐれているのは、その作者が、かれの故郷の州を征服したのと似たような、かたい意志とねばり強さとで、幾年ものあいだ、全然同一の作品の緊張のもとにこらえとおし、本来の制作に、もっぱらかれの最も強力な、最も尊厳な時をあてたからにすぎぬのである。

 ある重要な精神的産物が、たちどころに広い深い作用を及ぼし得るためには、あるひそかな親和が、いや、一致が、その創始者の個人的な運命と、かれと同時代の人々の一般的な運命とのあいだに、存立している必要がある。

人々は、なぜ自分たちが一つの芸術作品に名声を与えるかを知らない。くろうとなかまから遠くへだたっているかれらは、それだけの関心を正常化するために、その作品に幾多の美点を見いだしていると思っている。しかしかれらのかっさいの本来の理由は、はかり得ぬものであり、共感である。

アッシェンバッハは一度、あまりめだたぬ個所で、現存するほとんどすべての偉大なものは、一つの「にもかかわらず」として現存し、憂患ゆうかんと苦悩――貧困、孤独、肉体の弱味、悪徳、情熱、そのほか無数の障害にもかかわらず成就じょうじゅしたものだ、と端的に言明したことがある。

しかしこれは一つの所説以上のものだった。一つの経験だった。それこそかれの生活と名声との公式であり、かれの作品を解くかぎであった。だから、それがまた同時に、かれのえがく最も固有な人物の倫理的性格であり、外面的行動であったとしても、なんのふしぎがあろう。

 この作家の好んで描く、多様な個性をもった新しい姿で何度も現われてくる、英雄型については、すでに早く、ある賢明な分析者が、こう書いていた。――かれは「理智的な青年的な男らしさの概念」で、「その男らしさは剣や槍やりで腹をつらぬかれているのに、昂然こうぜんたるはじらいのうちに、歯をくいしばったまま、静かに突立っているものなのだ。」

一見あまりにも受動的な刻印があるにもかかわらず、これは美しい、さえた、精密な言葉だった。なぜといって、運命の中でのおちつき、苦悩の中での典雅てんがというものは、ある忍従を意味するにとどまらない。それは一つの能動的な業績であり、積極的な勝利なのであって、ゼバスチアンの姿は、芸術一般の――ではないとしても、たしかに今ここに語られている芸術の、最も美しい象徴である。

この物語られた世界をのぞいたとき、人は見た――内心の空洞くうどうと生物学的な衰微とを、最後のせとぎわまで、世間の目から隠している、あの優美な自制を。ぶすぶすといぶる情欲を、きよいほのおにまであおり立て得る、いや、美の王国を支配するほどに飛躍し得る、あのきいろい、感覚的に不利なみにくさを。

一つのたかぶった国民全体を、十字架のもとに、自らの足もとに屈せしめるだけの力を、精神の白熱的な深みから取って来る、あの蒼白そうはくな非力を。形態への空虚な厳格な奉仕の中にあるあの温雅な態度を。生れついたぎまん者の危険な、うその生活と、たちまち精根を疲れさせるあこがれと芸術を。

――これらすべての運命と、なお幾多の同じようなものを観察してみれば、人は、一体世の中に、弱さのもつ壮烈以外に、壮烈というものがあるだろうか、とうたがう気になる。ともかくしかし、どんな剛勇が、この剛勇よりもさらに時勢に適しているだろうか。

グスタアフ・アッシェンバッハは、すべてこんぱいの極限ではたらいている人々、負担過重の人々、すでに精根を枯らした人々、まだ毅然きぜんとしている人々――体格が貧弱で、資力にとぼしく、意志の恍惚こうこつと賢明な管理とによって、すくなくともしばしのあいだ、偉大なものの効果をあえて発揮する、あの業績上の道徳家たち――すべてそういう人たちを描く作家なのであった。

そういう人たちはたくさんいる。かれらは時代の英雄たちである。そしてかれらすべては、かれの作品のなかに自分たち自身を再認した。自分たちがそのなかで、裏書され、たかめられ、もてはやされているのを見いだした。かれらはかれに恩を感じた。かれの名をひろめたのである。




posted by 美健マスター at 06:00| ★娯楽読物 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
生活に役立つ情報コレクション
×

この広告は180日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。