2017年10月31日

娯楽読物3-7 柚木はその晩ふらふらと旅に出た

 柚木はその晩ふらふらと旅に出た。
 老妓の意志はかなり判って来た。それは彼女に出来なかったことを自分にさせようとしているのだ。しかし、彼女が彼女に出来なくて自分にさせようとしていることなぞは、彼女とて自分とて、またいかに運の籤のよきものを抽ひいた人間とて、現実では出来ない相談のものなのではあるまいか。

現実というものは、切れ端は与えるが、全部はいつも眼の前にちらつかせて次々と人間を釣って行くものではなかろうか。

 自分はいつでも、そのことについては諦あきらめることが出来る。しかし彼女は諦めということを知らない。その点彼女に不敏なところがあるようだ。だがある場合には不敏なものの方に強味がある。

 たいへんな老女がいたものだ、と柚木は驚いた。何だか甲羅を経て化けかかっているようにも思われた。悲壮な感じにも衝うたれたが、また、自分が無謀なその企てに捲まき込まれる嫌な気持ちもあった。

出来ることなら老女が自分を乗せかけている果しも知らぬエスカレーターから免れて、つんもりした手製の羽根蒲団のような生活の中に潜もぐり込みたいものだと思った。彼はそういう考えを裁くために、東京から汽車で二時間ほどで行ける海岸の旅館へ来た。

そこは蒔田の兄が経営している旅館で、蒔田に頼まれて電気装置を見廻りに来てやったことがある。広い海を控え雲の往来の絶え間ない山があった。こういう自然の間に静思して考えを纏まとめようということなど、彼には今までについぞなかったことだ。

 体のよいためか、ここへ来ると、新鮮な魚はうまく、潮を浴びることは快かった。しきりに哄笑こうしょうが内部から湧き上って来た。

 第一にそういう無限な憧憬にひかれている老女がそれを意識しないで、刻々のちまちました生活をしているのがおかしかった。それからある種の動物は、ただその周囲の地上に圏の筋をひかれただけで、それを越し得ないというそれのように、柚木はここへ来ても老妓の雰囲気から脱し得られない自分がおかしかった。

その中に籠こめられているときは重苦しく退屈だが、離れるとなると寂しくなる。それ故に、自然と探し出して貰いたい底心の上に、判り易い旅先を選んで脱走の形式を採っている自分の現状がおかしかった。

 みち子との関係もおかしかった。何が何やら判らないで、一度稲妻のように掠かすれ合った。

 滞在一週間ほどすると、電気器具店の蒔田が、老妓から頼まれて、金を持って迎えに来た。蒔田は「面白くないこともあるだろう。早く収入の道を講じて独立するんだね」と云った。
 柚木は連れられて帰った。しかし、彼はこの後、たびたび出奔癖がついた。




posted by 美健マスター at 06:00| ★娯楽読物 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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