2017年10月30日

娯楽読物3-6 柚木にはだんだん老妓のすることが

 柚木にはだんだん老妓のすることが判らなくなった。むかしの男たちへの罪滅しのために若いものの世話でもして気を取直すつもりかと思っていたが、そうでもない。近頃この界隈かいわいに噂が立ちかけて来た、老妓の若い燕つばめというそんな気配はもちろん、老妓は自分に対して現わさない。

 何で一人前の男をこんな放胆な飼い方をするのだろう。柚木は近頃工房へは少しも入らず、発明の工夫も断念した形になっている。そして、そのことを老妓はとくに知っている癖に、それに就ついては一言も云わないだけに、いよいよパトロンの目的が疑われて来た。

縁側に向いている硝子ガラス窓から、工房の中が見えるのを、なるべく眼を外らして、縁側に出て仰向けに寝転ぶ。夏近くなって庭の古木は青葉を一せいにつけ、池を埋めた渚なぎさの残り石から、いちはつやつつじの花が虻あぶを呼んでいる。

空は凝こごって青く澄み、大陸のような雲が少し雨気で色を濁しながらゆるゆる移って行く。隣の乾物ほしものの陰に桐の花が咲いている。

 柚木は過去にいろいろの家に仕事のために出入りして、醤油樽の黴かび臭い戸棚の隅に首を突込んで窮屈な仕事をしたことや、主婦や女中に昼の煮物を分けて貰って弁当を使ったことや、その頃は嫌いやだった事が今ではむしろなつかしく想い出される。

蒔田の狭い二階で、注文先からの設計の予算表を造っていると、子供が代る代る来て、頸くび筋が赤く腫はれるほど取りついた。小さい口から嘗なめかけの飴あめ玉を取出して、涎よだれの糸をひいたまま自分の口に押し込んだりした。

 彼は自分は発明なんて大それたことより、普通の生活が欲しいのではないかと考え始めたりした。ふと、みち子のことが頭に上った。老妓は高いところから何も知らない顔をして、鷹揚おうように見ているが、実は出来ることなら自分をみち子の婿むこにでもして、ゆくゆく老後の面倒でも見て貰おうとの腹であるのかも知れない。

だがまたそうとばかり判断も仕切れない。あの気嵩きがさな老妓がそんなしみったれた計画で、ひとに好意をするのではないことも判る。

 みち子を考える時、形式だけは十二分に整っていて、中身は実が入らずじまいになった娘、柚木はみなし茹ゆで栗の水っぽくぺちゃぺちゃな中身を聯想れんそうして苦笑したが、この頃みち子が自分に憎にくしみのようなものや、反感を持ちながら、妙に粘って来る態度が心にとまった。

 彼女のこの頃の来方は気紛れでなく、一日か二日置き位な定期的なものになった。

 みち子は裏口から入って来た。彼女は茶の間の四畳半と工房が座敷の中に仕切って拵こしらえてある十二畳の客座敷との襖ふすまを開けると、そこの敷居の上に立った。

片手を柱に凭もたせ体を少し捻ひねって嬌態を見せ、片手を拡げた袖の下に入れて、写真を撮とるときのようなポーズを作った。俯向うつむき加減に眼を不機嫌らしく額越しに覗かして
「あたし来てよ」と云った。

 縁側に寝ている柚木はただ「うん」と云っただけだった。
 みち子はもう一度同じことを云って見たが、同じような返事だったので、本当に腹を立て

「何て不精たらしい返事なんだろう、もう二度と来てやらないから」と云った。
「仕様のない我儘わがまま娘だな」と云って、柚木は上体を起上らせつつ、足を胡座あぐらに組みながら
「ほほう、今日は日本髪か」とじろじろ眺めた。

「知らない」といって、みち子はくるりと後向きになって着物の背筋に拗すねた線を作った。柚木は、華やかな帯の結び目の上はすぐ、突襟つきえりのうしろ口になり、頸の附根を真っ白く富士山形に覗かせて誇張した媚態びたいを示す物々しさに較べて、帯の下の腰つきから裾は、一本花のように急に削そげていて味もそっけもない少女のままなのを異様に眺めながら、この娘が自分の妻になって、何事も自分に気を許し、何事も自分に頼りながら、小うるさく世話を焼く間柄になった場合を想像した。

それでは自分の一生も案外小ぢんまりした平凡に規定されてしまう寂寞せきばくの感じはあったが、しかし、また何かそうなってみての上のことでなければ判らない不明な珍らしい未来の想像が、現在の自分の心情を牽ひきつけた。

 柚木は額を小さく見せるまでたわわに前髪や鬢びんを張り出した中に整い過ぎたほど型通りの美しい娘に化粧したみち子の小さい顔に、もっと自分を夢中にさせる魅力を見出したくなった。
「もう一ぺんこっちを向いてご覧よ、とても似合うから」

 みち子は右肩を一つ揺ったが、すぐくるりと向き直って、ちょっと手を胸と鬢へやって掻かい繕った。「うるさいのね、さあ、これでいいの」彼女は柚木が本気に自分を見入っているのに満足しながら、薬玉くすだまの簪かんざしの垂れをピラピラさせて云った。

「ご馳走を持って来てやったのよ。当ててご覧なさい」
 柚木はこんな小娘に嬲なぶられる甘さが自分に見透かされたのかと、心外に思いながら
「当てるの面倒臭い。持って来たのなら、早く出し給え」と云った。

 みち子は柚木の権柄けんぺいずくにたちまち反抗心を起して「人が親切に持って来てやったのを、そんなに威張るのなら、もうやらないわよ」と横向きになった。

「出せ」と云って柚木は立上った。彼は自分でも、自分が今、しかかる素振りに驚きつつ、彼は権威者のように「出せと云ったら、出さないか」と体を嵩張らせて、のそのそとみち子に向って行った。

 自分の一生を小さい陥穽かんせいに嵌はめ込んでしまう危険と、何か不明の牽引力の為めに、危険と判り切ったものへ好んで身を挺ていして行く絶体絶命の気持ちとが、生れて始めての極度の緊張感を彼から抽ひき出した。自己嫌悪けんおに打負かされまいと思って、彼の額から脂汗あぶらあせがたらたらと流れた。

 みち子はその行動をまだ彼の冗談半分の権柄ずくの続きかと思って、ふざけて軽蔑けいべつするように眺めていたが、だいぶ模様が違うので途中から急に恐ろしくなった。

 彼女はやや茶の間の方へ退すさりながら
「誰が出すもんか」と小さく呟つぶやいていたが、柚木が彼女の眼を火の出るように見詰めながら、徐々に懐中から一つずつ手を出して彼女の肩にかけると、恐怖のあまり「あっ」と二度ほど小さく叫び、彼女の何の修装もない生地の顔が感情を露出して、眼鼻や口がばらばらに配置された。

「出し給え」「早く出せ」その言葉の意味は空虚で、柚木の腕から太い戦慄せんりつが伝って来た。柚木の大きい咽喉のど仏がゆっくり生唾を飲むのが感じられた。

 彼女は眼を裂けるように見開いて「ご免なさい」と泣声になって云ったが、柚木はまるで感電者のように、顔を痴呆にして、鈍く蒼あおざめ、眼をもとのように据えたままただ戦慄だけをいよいよ激しく両手からみち子の体に伝えていた。

 みち子はついに何ものかを柚木から読み取った。普段「男は案外臆病なものだ」と養母の言った言葉がふと思い出された。

 立派な一人前の男が、そんなことで臆病と戦っているのかと思うと、彼女は柚木が人のよい大きい家畜のように可愛ゆく思えて来た。

 彼女はばらばらになった顔の道具をたちまちまとめて、愛嬌したたるような媚こびの笑顔に造り直した。
「ばか、そんなにしないだって、ご馳走あげるわよ」
 柚木の額の汗を掌でしゅっと払い捨ててやり

「こっちにあるから、いらっしゃいよ。さあね」
 ふと鳴って通った庭樹の青嵐を振返ってから、柚木のがっしりした腕を把とった。

 さみだれが煙るように降る夕方、老妓は傘をさして、玄関横の柴折戸しおりどから庭へ入って来た。渋い座敷着を着て、座敷へ上ってから、褄つまを下ろして坐った。
「お座敷の出がけだが、ちょっとあんたに云いっとくことがあるので寄ったんだがね」

 莨入たばこいれを出して、煙管きせるで煙草盆代りの西洋皿を引寄せて
「この頃、うちのみち子がしょっちゅう来るようだが、なに、それについて、とやかく云うんじゃないがね」
 若い者同志のことだから、もしやということも彼女は云った。
「そのもしやもだね」

 本当に性が合って、心の底から惚ほれ合うというのなら、それは自分も大賛成なのである。
「けれども、もし、お互いが切れっぱしだけの惚れ合い方で、ただ何かの拍子で出来合うということでもあるなら、そんなことは世間にいくらもあるし、つまらない。必ずしもみち子を相手取るにも当るまい。私自身も永い一生そんなことばかりで苦労して来た。それなら何度やっても同じことなのだ」

 仕事であれ、男女の間柄であれ、混り気のない没頭した一途いちずな姿を見たいと思う。
 私はそういうものを身近に見て、素直に死にたいと思う。
「何も急いだり、焦あせったりすることはいらないから、仕事なり恋なり、無駄をせず、一揆いっきで心残りないものを射止めて欲しい」と云った。

 柚木は「そんな純粋なことは今どき出来もしなけりゃ、在るものでもない」と磊落らいらくに笑った。老妓も笑って
「いつの時代だって、心懸けなきゃ滅多にないさ。だから、ゆっくり構えて、まあ、好きなら麦とろでも食べて、運の籤くじの性質をよく見定めなさいというのさ。幸い体がいいからね。根気も続きそうだ」
 車が迎えに来て、老妓は出て行った。




posted by 美健マスター at 06:00| ★娯楽読物 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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