2017年10月29日

娯楽読物3-5 それから二三日経って

 それから二三日経って、老妓は柚木を外出に誘った。連れにはみち子と老妓の家の抱えでない柚木の見知らぬ若い芸妓が二人いた。若い芸妓たちは、ちょっとした盛装をしていて、老妓に
「姐さん、今日はありがとう」と丁寧に礼を云った。

 老妓は柚木に
「今日は君の退屈の慰労会をするつもりで、これ等の芸妓たちにも、ちゃんと遠出の費用を払ってあるのだ」と云った。「だから、君は旦那になったつもりで、遠慮なく愉快をすればいい」

 なるほど、二人の若い芸妓たちは、よく働いた。竹屋の渡しを渡船に乗るときには年下の方が柚木に「おにいさん、ちょっと手を取って下さいな」と云った。そして船の中へ移るとき、わざとよろけて柚木の背を抱えるようにして掴つかまった。

柚木の鼻に香油の匂いがして、胸の前に後襟えりの赤い裏から肥った白い首がむっくり抜き出て、ぼんの窪くぼの髪の生え際が、青く霞めるところまで、突きつけたように見せた。顔は少し横向きになっていたので、厚く白粉おしろいをつけて、白いエナメルほど照りを持つ頬から中高の鼻が彫刻のようにはっきり見えた。

 老妓は船の中の仕切りに腰かけていて、帯の間から煙草入れとライターを取出しかけながら
「いい景色だね」と云った。

 円タクに乗ったり、歩いたりして、一行は荒川放水路の水に近い初夏の景色を見て廻った。工場が殖え、会社の社宅が建ち並んだが、むかしの鐘かねヶ淵ふちや、綾瀬あやせの面かげは石炭殻の地面の間に、ほんの切れ端になってところどころに残っていた。

綾瀬川の名物の合歓ねむの木は少しばかり残り、対岸の蘆洲あしずの上に船大工だけ今もいた。

「あたしが向島の寮に囲われていた時分、旦那がとても嫉妬家やきもちやきでね、この界隈かいわいから外へは決して出してくれない。それであたしはこの辺を散歩すると云って寮を出るし、男はまた鯉釣りに化けて、この土手下の合歓の並木の陰に船を繋もやって、そこでいまいうランデブウをしたものさね」

 夕方になって合歓の花がつぼみかかり、船大工の槌つちの音がいつの間にか消えると、青白い河靄もやがうっすり漂う。

「私たちは一度心中の相談をしたことがあったのさ。なにしろ舷ふなばた一つ跨またげば事が済むことなのだから、ちょっと危かった」
「どうしてそれを思い止ったのか」と柚木はせまい船のなかをのしのし歩きながら訊いた。

「いつ死のうかと逢う度毎に相談しながら、のびのびになっているうちに、ある日川の向うに心中態ていの土左衛門が流れて来たのだよ。人だかりの間から熟々つくづく眺めて来て男は云ったのさ。心中ってものも、あれはざまの悪いものだ。やめようって」

「あたしは死んでしまったら、この男にはよかろうが、あとに残る旦那が可哀想だという気がして来てね。どんな身の毛のよだつような男にしろ、嫉妬をあれほど妬やかれるとあとに心が残るものさ」

 若い芸妓たちは「姐さんの時代ののんきな話を聴いていると、私たちきょう日の働き方が熟々つくづくがつがつにおもえて、いやんなっちゃう」と云った。

 すると老妓は「いや、そうでないねえ」と手を振った。「この頃はこの頃でいいところがあるよ。それにこの頃は何でも話が手取り早くて、まるで電気のようでさ、そしていろいろの手があって面白いじゃないか」

 そういう言葉に執成とりなされたあとで、年下の芸妓を主に年上の芸妓が介添になって、頻しきりに艶なまめかしく柚木を取持った。
 みち子はというと何か非常に動揺させられているように見えた。

 はじめは軽蔑けいべつした超然とした態度で、一人離れて、携帯のライカで景色など撮うつしていたが、にわかに柚木に慣れ慣れしくして、柚木の歓心を得ることにかけて、芸妓たちに勝越そうとする態度を露骨に見せたりした。

 そういう場合、未成熟なまの娘の心身から、利かん気を僅かに絞り出す、病鶏のささ身ほどの肉感的な匂いが、柚木には妙に感覚にこたえて、思わず肺の底へ息を吸わした。だが、それは刹那せつな的のものだった。心に打ち込むものはなかった。

 若い芸妓たちは、娘の挑戦を快くは思わなかったらしいが、大姐さんの養女のことではあり、自分達は職業的に来ているのだから、無理な骨折りを避けて、娘が努めるときは媚こびを差控え、娘の手が緩むと、またサービスする。みち子にはそれが自分の菓子の上にたかる蠅はえのようにうるさかった。

 何となくその不満の気持ちを晴らすらしく、みち子は老妓に当ったりした。
 老妓はすべてを大して気にかけず、悠々と土手でカナリヤの餌えのはこべを摘んだり菖蒲園しょうぶえんできぬかつぎを肴さかなにビールを飲んだりした。

 夕暮になって、一行が水神すいじんの八百松へ晩餐ばんさんをとりに入ろうとすると、みち子は、柚木をじろりと眺めて

「あたし、和食のごはんたくさん、一人で家に帰る」と云い出した。芸妓たちが驚いて、では送ろうというと、老妓は笑って
「自動車に乗せてやれば、何でもないよ」といって通りがかりの車を呼び止めた。

 自動車の後姿を見て老妓は云った。
「あの子も、おつな真似をすることを、ちょんぼり覚えたね」




posted by 美健マスター at 06:00| ★娯楽読物 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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