2017年10月28日

娯楽読物3-4 半年ほどの間、柚木の幸福感は続いた

 半年ほどの間、柚木の幸福感は続いた。しかし、それから先、彼は何となくぼんやりして来た。目的の発明が空想されているうちは、確に素晴らしく思ったが、実地に調べたり、研究する段になると、自分と同種の考案はすでにいくつも特許されていてたとえ自分の工夫の方がずっと進んでいるにしても、既許のものとの牴触ていしょくを避けるため、かなり模様を変えねばならなくなった。

その上こういう発明器が果して社会に需要されるものやらどうかも疑われて来た。実際専門家から見ればいいものなのだが、一向社会に行われない結構な発明があるかと思えば、ちょっとした思付きのもので、非常に当ることもある。

発明にはスペキュレーションを伴うということも、柚木は兼ね兼ね承知していることではあったが、その運びがこれほど思いどおり素直に行かないものだとは、実際にやり出してはじめて痛感するのだった。

 しかし、それよりも柚木にこの生活への熱意を失わしめた原因は、自分自身の気持ちに在った。前に人に使われて働いていた時分は、生活の心配を離れて、専心に工夫に没頭したら、さぞ快いだろうという、その憧憬から日々の雑役も忍べていたのだがその通りに朝夕を送れることになってみると、単調で苦渋なものだった。

ときどきあまり静で、その上全く誰にも相談せず、自分一人だけの考を突き進めている状態は、何だか見当違いなことをしているため、とんでもない方向へ外それていて、社会から自分一人が取り残されたのではないかという脅えさえ屡々しばしば起った。

 金儲けということについても疑問が起った。この頃のように暮しに心配がなくなりほんの気晴らしに外へ出るにしても、映画を見て、酒場へ寄って、微酔を帯びて、円タクに乗って帰るぐらいのことで充分すむ。その上その位な費用なら、そう云えば老妓は快くくれた。

そしてそれだけで自分の慰楽は充分満足だった。柚木は二三度職業仲間に誘われて、女道楽をしたこともあるが、売もの、買いもの以上に求める気は起らず、それより、早く気儘きままの出来る自分の家へ帰って、のびのびと自分の好みの床に寝たい気がしきりに起った。

彼は遊びに行っても外泊は一度もしなかった。彼は寝具だけは身分不相応のものを作っていて、羽根蒲団など、自分で鳥屋から羽根を買って来て器用に拵こしらえていた。

 いくら探してみてもこれ以上の慾が自分に起りそうもない、妙に中和されてしまった自分を発見して柚木は心寒くなった。
 これは、自分等の年頃の青年にしては変態になったのではないかしらんとも考えた。

 それに引きかえ、あの老妓は何という女だろう。憂鬱な顔をしながら、根に判らない逞たくましいものがあって、稽古ごと一つだって、次から次へと、未知のものを貪むさぼり食って行こうとしている。常に満足と不満が交かわる交る彼女を押し進めている。

 小そのがまた見廻りに来たときに、柚木はこんなことから訊きく話を持ち出した。
「フランスレビュウの大立者の女優で、ミスタンゲットというのがあるがね」
「ああそんなら知ってるよ。レコードで……あの節廻しはたいしたもんだね」

「あのお婆さんは体中の皺しわを足の裏へ、括くくって溜めているという評判だが、あんたなんかまだその必要はなさそうだなあ」

 老妓の眼はぎろりと光ったが、すぐ微笑して
「あたしかい、さあ、もうだいぶ年越の豆の数も殖ふえたから、前のようには行くまいが、まあ試しに」といって、老妓は左の腕の袖口を捲って柚木の前に突き出した。

「あんたがだね。ここの腕の皮を親指と人差指で力一ぱい抓つねって圧おさえててご覧」
 柚木はいう通りにしてみた。柚木にそうさせて置いてから、老妓はその反対側の腕の皮膚を自分の右の二本の指で抓って引くと、柚木の指に挾はさまっていた皮膚はじいわり滑り抜けて、もとの腕の形に納まるのである。

もう一度柚木は力を籠こめて試してみたが、老妓にひかれると滑り去って抓り止めていられなかった。鰻うなぎの腹のような靱つよい滑かさと、羊皮紙のような神秘な白い色とが、柚木の感覚にいつまでも残った。
「気持ちの悪い……。だが驚いたなあ」

 老妓は腕に指痕の血の気がさしたのを、縮緬ちりめんの襦袢じゅばんの袖で擦こすり散らしてから、腕を納めていった。
「小さいときから、打ったり叩たたかれたりして踊りで鍛えられたお蔭だよ」

 だが、彼女はその幼年時代の苦労を思い起して、暗澹あんたんとした顔つきになった。
「おまえさんは、この頃、どうかおしかえ」
 と老妓はしばらく柚木をじろじろ見ながらいった。

「いいえさ、勉強しろとか、早く成功しろとか、そんなことをいうんじゃないよ。まあ、魚にしたら、いきが悪くなったように思えるんだが、どうかね。自分のことだけだって考え剰あまっている筈の若い年頃の男が、年寄の女に向って年齢のことを気遣うのなども、もう皮肉に気持ちがこずんで来た証拠だね」

 柚木は洞察の鋭さに舌を巻きながら、正直に白状した。
「駄目だな、僕は、何も世の中にいろ気がなくなったよ。いや、ひょっとしたら始めからない生れつきだったかも知れない」

「そんなこともなかろうが、しかし、もしそうだったら困ったものだね。君は見違えるほど体など肥って来たようだがね」

 事実、柚木はもとよりいい体格の青年が、ふーっと膨ふくれるように脂肪がついて、坊ちゃんらしくなり、茶色の瞳の眼の上瞼うわまぶたの腫はれ具合や、顎あごが二重に括くびれて来たところに艶つやめいたいろさえつけていた。

「うん、体はとてもいい状態で、ただこうやっているだけで、とろとろしたいい気持ちで、よっぽど気を張り詰めていないと、気にかけなくちゃならないことも直ぐ忘れているんだ。それだけ、また、ふだん、いつも不安なのだよ。生れてこんなこと始めてだ」

「麦とろの食べ過ぎかね」老妓は柚木がよく近所の麦飯ととろろを看板にしている店から、それを取寄せて食べるのを知っているものだから、こうまぜっかえしたが、すぐ真面目になり「そんなときは、何でもいいから苦労の種を見付けるんだね。苦労もほどほどの分量にゃ持ち合せているもんだよ」




posted by 美健マスター at 06:00| ★娯楽読物 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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